豊臣秀吉を筆頭に出世した武将のパワーにあやかる「人生大出世夢街道」
イラスト/ホマ蔵
名古屋および尾張の地は、
個性豊かな武将たちを輩出した
〈武将のふるさと〉。
ゆかりの地には彼らが出世祈願し、
その飛躍を加護したといわれる
パワースポットが今に伝わる。
武将たちにあやかり、
出世運や勝運を開きましょう!
出世武将にあやかる
「人生大出世夢街道」は3ルート
人生大出世夢街道NEWS
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2021.03.11
中村公園文化プラザ内に墨絵展示が完成しました。
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豊臣 秀吉
(1537~1598)
天文六年(1537)、名古屋市中村区に生まれる。織田信長・徳川家康と並ぶ三英傑の一人。織田信長に仕官したが、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、山崎の戦いで光秀を破る。人心を掴むことが得意で、名だたる有能な武将を配下とした。後に柴田勝家との後継者争いを制すると、四国・九州平定に続く小田原征伐・奥羽仕置により天下を統一し、天下人となった。派手好みで、醍醐の花見などの大規模な宴を催したが、自らも当世の一流文化人に学び、教養を高める一面も。低い身分から天下人への成り上がりは、「戦国一の出世頭」と評される。戦国時代に燦然と輝く「太閤秀吉」の生き様や人間的な魅力は、今なお我々を魅了し続けている。
加藤 清正
(1562~1611)
永禄五年(1562)、豊臣秀吉と同じ名古屋市中村区に生まれ、早くから秀吉の小姓として従軍。秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として称せられる。肥後熊本藩初代藩主。「肥後の虎」の異名を持ち武闘派・猛将のイメージが強いが、政情不安だった肥後北半国の大名になると、藩内強化に努め治水事業や新田開発のほか、名城と謳われる熊本城を築城するなど、内政にも非凡な才能を発揮した。その築城技術を買われ、名古屋城普請では天守台を担当している。誉れ高き武勇と忠義、また領国経営への貢献は多くの民衆に慕われ、今でも「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれている。
前田 利家
(1537~1599)
天文六年(1537)、尾張国愛知郡の荒子城主前田利昌(利春)四男として生まれる。生誕地は荒子または尾張国海東郡の前田の2説がある(ともに名古屋市中川区)。幼名犬千代。元服後に孫四郎、又左衛門。十五歳で織田信長に仕える。永禄十二年(1569)、信長の命により兄に代わって前田家の家督を継ぎ荒子城主。信長死後、秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いを経て羽柴(豊臣)秀吉に臣従し、加賀金沢城主。その後、加賀・能登・越中三国にまたがる北国の重鎮となり、加賀百万石の基礎を築く。若い頃はかぶき者で短気だったが、長じて温厚篤実、また信長小姓時代から戦場を駆け巡った歴戦の将として人望を集め、晩年の秀吉を支えた。
前田 慶次
(生没年不詳)
「天下御免のかぶき者」として知られるが史料が乏しく不明な点が多い。天文二年(1533)、または天文十年(1541)生まれ。出自は信長家臣・滝川一益の一族。荒子城主前田利久(利家の長兄)の婿養子となり荒子城に入った。利久は家督を慶次に譲ろうとしたが、信長の命により利家が家督を継いだ。その後の足取りは不明ながら、熱田神宮には「天正九年に荒子の住人前田慶次郎が太刀を奉納」という記録と太刀が伝えられている。数年後、利家に仕えたが秀吉の奥州平定後に前田家を出奔し、関ケ原の戦い前に会津上杉家に仕える。かぶき者としての逸話とともに数多くの文人と交流があり、和歌や連歌をたしなんだ教養人でもあったといわれる。
福島正則
(1561~1624)
永禄四年(1561)、尾張国海東郡二ツ寺(あま市二ツ寺)に生まれる。幼名は市松。母が秀吉の叔母ともいわれる。天正十一年(1583)、賤ヶ岳「七本槍」では一番槍の功名で五千石を与えられる。文禄四年(1595)には故郷尾張二十四万石、清須城主に抜擢された。秀吉死後、石田三成と対立。関ケ原の戦いでは家康方の先鋒を務め三成方を圧倒した。その功績により安芸・備後で四十九万石の大大名に出世し、広島城主となった。慶長十五年(1610)、名古屋城築城の折、堀川開削奉行として工事の指揮にあたった。元和五年(1619)、広島城の石垣を無断修理した咎で大幅減封、信濃川中島に改易された。
蜂須賀 正勝
(1526~1586)
大永六年(1526)、尾張国海東郡蜂須賀(あま市蜂須賀)に生まれる。幼名は小六、のち彦右衛門。木曽川流域を拠点とした川並衆の頭目として水運業や傭兵を稼業としていた。美濃の斎藤道三、岩倉織田家、犬山織田家、信長と主君を変えた。秀吉とともに美濃攻めで活躍。以降、秀吉の片腕として各地を転戦。江戸時代の軍記物語に登場する野武士や盗賊の虚像とは裏腹に、史実の正勝は、敵対勢力との折衝や調略を得意とした智謀の将だった。天正十三年(1585)、四国出兵では長宗我部氏の早期降伏を実現。秀吉により阿波一国を与えられたが老齢を理由に子の家政に譲り隠居した。
まつ(芳春院)
(1547~1617)
天文十六年(1547)、尾張国海東郡沖之島(あま市七宝町)に生まれる。母は利家母の姉で利家とは従兄弟の間柄。生後まもなく父が没したため、四歳の時、荒子城主前田利昌(利春)の養女となった。永禄元年(1558)、利家に嫁ぎ嫡男利長、二男利政(ともに荒子城生まれ)など二男九女をもうけた。利家と佐々成政が戦った末森城の戦いでは、利家を𠮟咤した逸話がつたわる。慶長四年(1599)、利家が没すると剃髪し芳春院と号した。まもなく利長謀反の風評が流れ、家康が加賀征伐を企図すると徳川家人質として江戸へ下り、前田家安泰を図った。江戸での人質生活は利長の死によって帰国が許されるまで15年にも及んだ。